大鵬の出身地は樺太か弟子屈か?ウクライナ人の父と激動の生い立ち
「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語とともに、昭和の日本中を熱狂させた第48代横綱・大鵬幸喜。幕内最高優勝32回という金字塔を打ち立て、国民栄誉賞を受賞した昭和の大横綱ですが、大相撲の公式プロフィールに記された「北海道弟子屈町出身」という表記の奥には、教科書には載らない壮絶な歴史とルーツが刻まれています。
実は、大鵬が生まれた場所は北海道本土ではなく、かつて日本領であった樺太(現サハリン)の敷香町でした。父親はウクライナ人、母親は日本人というハーフとして生を受け、第二次世界大戦末期の混乱の中で生死を分ける引き揚げを経験した波乱の生い立ち。孫たちが大相撲の土俵で躍進を続ける2026年の今、改めて知るべき昭和の大横綱・大鵬の出身地と知られざるルーツの真相に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:大鵬の出生地は旧樺太敷香町であり、終戦に伴う過酷な引き揚げを経て北海道川上郡弟子屈町で育った。
- 要点2:本名は納谷幸喜で、ウクライナ出身の父親と日本人女性の母親との間に生まれたハーフだった。
- 要点3:現在も孫である王鵬をはじめとする納谷兄弟が角界で活躍し、大横綱の誇り高き血統が受け継がれている。
【出生の真相】公式出身地「北海道弟子屈町」と「樺太・敷香町」の真実
日本相撲協会の公式記録において、大鵬の出身地は北海道川上郡弟子屈町(てしかがちょう)と記載されています。弟子屈町は阿寒摩周国立公園を抱える自然豊かな町であり、大鵬が少年時代を過ごし、相撲の基礎となる屈強な肉体を育んだかけがえのない故郷です。
しかし、戸籍上の出生地は北海道本土ではありません。大鵬(本名:納谷幸喜)は、1940年(昭和15年)5月29日、当時日本の領土であった樺太敷香郡敷香町(現在のロシア・サハリン州ポロナイスク)で産声を上げました。
敷香町は当時、樺太北部との境界に近く、日本最北の国境の街として栄えていました。大鵬の公式出身地が「弟子屈町」となっているのは、終戦後の引き揚げによって定住した地であり、大相撲入門の際に「育ての故郷」として弟子屈を届け出たためです。出生地である樺太と、少年期を過ごした弟子屈町――この2つの土地はいずれも大鵬の人生を形作る決定的な舞台でした。
【家族のルーツ】父親はウクライナ人、母親は日本人・納谷キヨ

大鵬の端正な顔立ちと、当時としては際立った白く滑らかな肌、187センチの均整の取れた体躯は、その血筋に由来しています。大鵬は、ウクライナ人の父親と日本人の母親を持つハーフでした。
父親の名はマルキャン・ボリシコ(Markian Boryshko)。現在のウクライナ北東部ハルキウ州(ハリコフ州)ルベジノエ村出身のコサック系ウクライナ人です。ロシア革命の混乱を逃れてサハリンへ亡命し、敷香町で牧場経営や精肉業、キツネの養殖などを手広く手掛け、地域で成功を収めた実業家でした。
一方、母親は北海道出身の納谷キヨさん。ボリシコ氏が経営する農園で働いていたことをきっかけに2人は結ばれました。大鵬にはロシア名として「イヴァーン(Ivan)」という名も与えられ、裕福な家庭環境の中で幼少期を過ごします。しかし、この平穏な生活は太平洋戦争の終結とともに一変することになります。
【戦乱の引き揚げ】樺太からの脱出、父との別れと奇跡の生還

1945年(昭和20年)8月、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して樺太へ侵攻を開始。この事態によって家族の運命は暗転しました。
白系ロシア人としてソ連政権に追われていた父親のマルキャン氏は、ソ連軍当局によって即座に拘束・連行され、家族は強制的に引き裂かれます。母・キヨさんと幼い幸喜を含む子どもたちは、身の危険を感じながら命からがら敷香を脱出し、樺太南端の大泊(現コルサコフ)を目指しました。これ以降、大鵬が生涯にわたって父と再会することは二度とありませんでした。
さらに、樺太からの引き揚げ船をめぐって奇跡的な出来事が起きます。一家は当初、引き揚げ船「小笠原丸」に乗船して北海道へ向かいましたが、航行中に幼い幸喜が激しい船酔いと高熱を発したため、経由地であった小樽港で急遽下船しました。その直後、航海を続けた小笠原丸は留萌沖で潜水艦の魚雷攻撃を受け、撃沈(三船殉難事件)。乗客600名以上が犠牲となる惨劇に見舞われたのです。母キヨの決断が、のちの大横綱の命を救う結果となりました。
北海道上陸後、一家は岩見沢や札幌などを転々とした後、キヨの再婚相手を頼って弟子屈町川湯へと移住します。極貧の生活の中、幸喜少年は納豆売りや木材運びなどの重労働をして家計を助け、冬には厳しい寒さの中で足腰を鍛え上げました。この過酷な弟子屈での日々が、不屈の大横綱の土台を作ったのです。
【昭和の大横綱へ】「巨人・大鵬・卵焼き」から国民栄誉賞への軌跡
1956年、弟子屈中学校を卒業した幸喜は、その恵まれた体格を見込まれて二所ノ関部屋へ入門。四股名「大鵬」を授かります。大鵬とは、中国の伝説に登場する天空を覆う巨大な鳥を意味します。
初土俵を踏んでからの出世スピードは凄まじく、1960年11月場所で幕内初優勝を果たすと、翌1961年には21歳3カ月の若さで第48代横綱へ昇進。ライバル・柏戸とともに「柏鵬(はくほう)時代」を築き上げ、日本中を熱狂させました。
当時の子どもたちが好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉は流行語となり、戦後復興を象徴する大スターとして君臨。生涯戦績は872勝182敗136休、幕内最高優勝32回という不滅の記録を残しました。外国にルーツを持つという出自から、当時は心ない中傷を受けることもありましたが、土俵上では一切の弁解をせず、礼儀正しく堂々とした相撲道に徹した姿勢が高く評価され、引退後の2013年には大相撲界で初となる国民栄誉賞が授与されています。
【聖地と家系図】川湯温泉「大鵬相撲記念館」と角界を背負う孫たち
大鵬が育った北海道弟子屈町の川湯温泉には、現在も「大鵬相撲記念館(川湯相撲記念館)」が建ち、多くの相撲ファンや観光客が訪れる名所となっています。館内には、現役時代の優勝賜杯のレプリカや化粧まわし、激動の樺太引き揚げに関する貴重な資料、ウクライナの父親に関する展示などが保存されており、弟子屈町が大鵬の栄誉を今なお大切に讃え続けている様子が伝わります。
そして大鵬のDNAは、令和の現代にもしっかりと息づいています。大鵬の三女・美絵子さんと結婚したのが、元関脇・貴闘力(元大嶽親方)です。その間に生まれた息子たち(大鵬の孫)が相撲界で大きな存在感を放っています。
特に三男の王鵬幸之介(おうほう)は、祖父を彷彿とさせる均整の取れた体格と力強い突き押し相撲で幕内上位に定着。さらに四男の夢道鵬(むどうほう)や次男の鵬幸成らも角界に身を置き、プロレスラーとして活躍する長男の納谷幸男を含め、大鵬の血脈は多様な舞台で受け継がれています。2026年現在の土俵でも、大鵬の孫たちの取組はファンから絶大な注目と声援を集めています。
【大鵬 出身 地】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:大鵬の公式出身地が「北海道弟子屈町」になっているのはなぜですか?
A1:大鵬が生まれたのは旧樺太敷香町ですが、終戦後の引き揚げによって移り住み、少年時代を過ごした土地が北海道弟子屈町川湯でした。大相撲入門時に自身を育ててくれた弟子屈町を公式出身地として相撲協会に届け出たため、現在も公式記録は弟子屈町となっています。
Q2:父親のマルキャン・ボリシコ氏はその後どうなったのですか?
A2:終戦直後にソ連軍によって連行された後、サハリンの強制収容所に入れられ、家族と二度と会うことはできませんでした。後にソ連本土に移住し、1957年に60歳で亡くなったとされています。大鵬自身は後年、ルーツを探るためウクライナを訪問し、父の故郷との交流を行いました。
Q3:大鵬の国籍や本名はどのようなものでしたか?
A3:本名は「納谷幸喜(なや こうき)」です。出生時は父親がウクライナ(白系ロシア)出身でしたが、母親が日本人であったため日本国籍を取得していました。幼少期にはロシア名「イヴァーン」も持っていましたが、引き揚げ後は母の姓である納谷を名乗り、日本国民として生涯を歩みました。
まとめ:激動の時代が生んだ大横綱のルーツと受け継がれる誇り
昭和の大横綱・大鵬の原点は、国境の街・樺太敷香町での誕生と、戦火をくぐり抜けた引き揚げ、そして極寒の北海道弟子屈町で培われた不屈の精神にありました。ウクライナの血を引く異色の出自を持ちながら、誰よりも美しく礼儀を重んじる相撲道を示し続けた大鵬の生き様は、多くの人々に勇気を与え続けています。
弟子屈町の美しい自然と大鵬相撲記念館、そして大相撲の土俵で躍動する王鵬ら孫力士たちの姿を通して、昭和のレジェンドが遺した誇りと魂は、これからも色あせることなく未来へと語り継がれていくはずです。 (出典: 大鵬 出身 地(Yahoo!ニュース))