徳川家康「しかみ像」の嘘!三方ヶ原の定説覆す肖像画の真相
教科書の歴史コーナーや戦国時代を扱った特集で、誰もが一度は目にしたことのある異形の肖像画があります。険しい眉根を寄せ、唇を噛みしめ、右足を左腿に乗せて苦悶の表情を浮かべる徳川家康の姿を描いた「しかみ像(顰像)」です。
「武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦い直後、自らの慢心と恐怖を生涯忘れないために絵師に描かせた」というエピソードは、ビジネス書やリーダー論でも語り継がれる定番の美談でした。しかし、近年の歴史研究によって、このドラマチックな通説は後世に創作されたフィクションである事実が判明しています。なぜこの絵は描かれ、いかにして「負け戦の自戒画」へと仕立て上げられたのか、現存する肖像画の真実を追究します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:「しかみ像」が三方ヶ原の敗戦直後に描かれたという定説は、江戸時代後期(18世紀末以降)に作られた創作エピソード。
- 要点2:作品の成立時期は家康の没後(17世紀半ば以降)とみられ、武神や仏教の図像学的アプローチで描かれた可能性が極めて高い。
- 要点3:教科書でおなじみの威厳ある「狩野探幽」の神格化肖像画と異なり、後世の武士教育や藩の権威付けのために物語が付与された。
【衝撃の新説】三方ヶ原の戦い「自戒の肖像画」という定説はいつ作られたのか

定説を根底から覆すきっかけとなったのは、所蔵先である徳川美術館(愛知県名古屋市)の主任研究員・原史彦氏による綿密な調査報告です。長年、公式な作品名として「徳川家康三方ヶ原戦役画像」と呼ばれてきた本画ですが、古記録を徹底的に遡った結果、驚くべき事実が浮き彫りになりました。
江戸時代初期から中期の記録には、「三方ヶ原で敗れた際の自戒のために描かせた」という記述は一切存在しません。このエピソードが初めて文献上に登場するのは、尾張徳川家第9代当主・徳川宗睦の時代である寛政11年(1799年)前後のことです。それ以前の記録では、単に「家康公のお姿」あるいは「長篠戦役図」などと曖昧に扱われており、三方ヶ原の惨敗劇と結びつけられたのは絵の制作から150年以上も後のことでした。
現在では、大河ドラマや最新の歴史解説書でも「三方ヶ原の自戒説は後世の付会」として解説されるのが標準となりつつあります。
顰像(しかみ像)の本来の正体とは?描かれた本当の理由と作者の謎

では、そもそもこの特異な絵画は誰が何の目的で描いたのでしょうか。「顰像(しかみ像)」と呼ばれるこの肖像画には、当時の一般的な武将画とは大きく異なる特徴がいくつも存在します。
まず、絵画の様式や顔料、紙の質感を分析した結果、作者は不明ながらも、家康が存命だった戦国期ではなく、家康没後の江戸時代前期から中期(17世紀中葉)に描かれた作品であることが分かっています。つまり、戦場から逃げ帰った家康自身が絵師を呼んで描かせたという前提そのものが成立しません。
構図に注目すると、片足をもう一方の足の上に乗せる「半跏思惟」に似たポーズや、歯を食いしばり忿怒の表情を浮かべる姿は、神道や仏教における「不動明王」や「忿怒相の武神」の図像表現と強い類似性を持っています。神格化された東照大権現(家康)を、邪気を払い国家門戸を守護する過酷な修行僧・守護神に見立てて描いた信仰画、あるいは禅宗的な寓意画として制作されたという見解が有力視されています。
教科書でおなじみ「狩野探幽」の家康像と何が違う?肖像画の種類の真実

私たちが「徳川家康」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、しかみ像とは全く異なる、恰幅が良く堂々とした束帯姿の肖像画です。これら公的な肖像画の多くを手がけたのが、江戸幕府の御用絵師であった狩野探幽です。
家康の肖像画には、用途や制作背景によって大きく分けると以下のような明確な種類と役割の違いが存在します。
1. 東照大権現像(神格化肖像画)
狩野探幽をはじめとする狩野派が幕府の命で量産した肖像画。日光東照宮などに祀られる神としての家康を描いたもので、装束は朝廷の高官が着る「束帯」を着用。ふくよかな丸顔に温厚かつ威厳ある表情をたたえ、泰平の世を築いた神聖不可侵な開祖としての姿を定着させました。
2. 武将肖像画(軍装像)
具足(鎧兜)を身にまとい、床几に座る武将としての実戦的な姿を描いたもの。合戦での功績を称えたり、譜代大名に下賜したりする目的で作られました。
3. 念持仏的・寓意的な異形像(しかみ像など)
特定の寺社や一族内部で秘蔵され、一般的な拝受用とは異なる信仰・教訓・鎮魂の意図で特別に仕立てられた異色の作品群です。
本物の徳川家康はどんな顔だったのか?現存する肖像画の「違い」を比較検証
神格化された探幽の絵や、異形のしかみ像を見ていくと、「結局のところ、生前の家康の本当の顔はどれに近かったのか」という疑問が湧きます。
家康が生きていた当時に描かれたとされる生前像(高野山宝善院所蔵像や浄土寺所蔵像など)を見ると、晩年の神格化された肖像ほど極端に太ってはおらず、引き締まった頬骨と鋭い眼光を持つ、極めて現実的な戦国武将の風貌が記録されています。
また、家康と直接会見した外国人たちの記録も、リアルな容貌を補補強する貴重な資料です。慶長14年(1609年)に謁見した元フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、家康の容姿を「小柄で非常に肥満しており、威厳と落ち着きに満ちた素晴らしい風采」と書き残しています。生前の家康は、壮年期までは頑強で引き締まった武人であり、天下を掌握した晩年には恰幅の良い堂々たる体躯へと変化していった様子が読み取れます。
なぜ後世の人間は「敗北に怯える家康」のストーリーを捏造したのか
なぜ尾張徳川家をはじめとする後世の武士たちは、自分たちの偉大なる御祖父(初代将軍)が「みじめに怯え、脱糞までしたとされる屈辱の姿」というストーリーをあえて作り出したのでしょうか。
その背景には、江戸時代中期から後期にかけての武士階級のモラル低下と幕政改革の危機感がありました。平和が続き、武芸を忘れ驕りに走る旗本や藩士たちに対し、「天下を統一した神君・家康公ですら、若き日の油断から手痛い大敗を喫し、その恥を生涯忘れずに刻みつけた」という分かりやすい教訓が必要とされたのです。
尾張徳川家にとっても、神君の人間味あふれる「克己心」のシンボルとしてこの肖像画を再解釈することは、藩士の引き締めや徳川一門としての精神的優位性をアピールする上で絶好の教材でした。名画に宿る物語は、時代が求めた指導者像によって都合よく再構成された結果だったといえます。
【徳川家康の肖像画】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:しかみ像は現在どこで見ることができますか?一般公開はされていますか?
A1:愛知県名古屋市東区にある「徳川美術館」に所蔵されています。常設展示はされていませんが、家康関連の特別展や企画展の際に期間限定で一般公開されることがあります。
Q2:教科書からは「しかみ像」のエピソードは完全に消えたのですか?
A2:近年の教科書では、三方ヶ原の戦いで自戒のために描かせたという記述は削除されるか、「近年では異説がある」「後世の創作とされる」といった注釈付きで紹介されるケースが増えています。
Q3:家康の肖像画で「狩野探幽」が描いたものは何点くらいあるのですか?
A3:狩野探幽本人が描いた原本とされる作品のほか、探幽の構図を模写・公認複製した「東照大権現像」は全国の東照宮や旧大名家に数百点規模で残されています。江戸幕府の公式ビジュアルとして全国に配布されました。
まとめ:神格化と人間味の間で揺れ動く徳川家康のリアルな素顔
徳川家康の肖像画をめぐる言説の変遷は、歴史が「どのように記憶され、再構築されていくか」を示す典型的な事例です。威厳に満ちた神としての姿を描かせた狩野探幽の絵と、苦難を乗り越える人間の象徴として物語を上書きされた「しかみ像」。
定説が崩壊したからといって、しかみ像の歴史的価値が失われるわけではありません。むしろ「なぜその時代にその物語が必要とされたのか」という新たな視点を得ることで、戦国から江戸、そして現代へと続く日本人の歴史観や家康像の深層を読み解く重要な手がかりを与えてくれます。 (出典: 徳川 家康 肖像画(Yahoo!ニュース))