名門・東関部屋はなぜ閉鎖したのか?曙や高見盛の軌跡と統合の真相
大相撲の歴史において、初の外国人横綱・曙太郎や「角界のロボコップ」として絶大な人気を誇った高見盛を輩出し、昭和から平成の土俵を大いに沸かせた名門・東関部屋。かつてハワイ旋風を巻き起こし、相撲界の国際化の象徴でもあった名門が、なぜ2021年に突如として看板を下ろすことになったのでしょうか。
葛飾区柴又への新築移転からわずか3年余りでの閉鎖劇は、相撲ファンのみならず地域住民や角界関係者にも大きな衝撃を与えました。その背景には、若き師匠の急逝、苦悩の末に部屋を継いだ元高見盛の葛藤、そして現代の大相撲界が直面する根深い後継者問題が存在していました。名門の創設から閉鎖、そして八角部屋への統合と気になる跡地の現在まで、その全貌を解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:東関部屋閉鎖の決定打は、2代師匠(元幕内・潮丸)の41歳での急逝と、急遽継承した元高見盛の運営面における苦悩だった。
- 要点2:2021年4月、日本相撲協会の公式発表を経て同じ高砂一門の八角部屋へ力士・親方・裏方全員が移籍・統合された。
- 要点3:葛飾区柴又の新部屋跡地は地域に惜しまれつつ役目を終え、所属力士たちもそれぞれのセカンドキャリアや新たな土俵へと進んでいる。
【激震の真相】名門・東関部屋が閉鎖に追い込まれた最大の理由
東関部屋の閉鎖に至る引き金となったのは、2代東関親方(元幕内・潮丸)のあまりにも早すぎる死でした。初代・高見山から2009年に部屋を継承した2代東関親方は、明るく気配りの行き届いた人柄で弟子たちの指導に当たり、部屋の発展に尽力していました。しかし2019年12月、血管肉腫のため41歳の若さで急逝。大黒柱を突如失った部屋は大きな混乱に陥ります。
師匠不在の危機を救うべく立ち上がったのが、部屋付き親方として後進を指導していた振分親方(元小結・高見盛)でした。2020年1月、名跡を「東関」へと変更して第3代師匠に就任。愛弟子の急死に心を痛めていた先代・高見山(渡辺大五郎氏)の意向もあり、伝統の看板を守る覚悟を決めての船出でした。
しかし、現役時代から純朴で繊細な性格として知られた元高見盛にとって、部屋全体の経営、スポンサー対応、スカウト活動、そして弟子たちの私生活指導という重責は過大な負担となってのしかかりました。指導方針や部屋の将来像を巡り苦悩を深める中、日本相撲協会との協議を重ねた結果、部屋の単独維持を断念。2021年4月1日付での部屋閉鎖と八角部屋への統合という苦渋の決断が下されたのです。
【栄光の歴史と歴代師匠】高見山・曙・高見盛が紡いだ黄金期

東関部屋の歴史は、まさに大相撲の国際化とエンターテインメントの歴史そのものでした。1986年(昭和61年)、高砂部屋から独立した元関脇・高見山大五郎が、外国出身力士として史上初めて相撲部屋を創設。墨田区本所吾妻橋に構えた道場には、初代師匠の豪快な人柄と指導力を慕って多くの若者が集まりました。
その筆頭が、同じハワイ出身の第64代横綱・曙太郎です。203cmの巨躯から繰り出す強烈な突っ張りでライバルの若貴兄弟と激闘を繰り広げ、大相撲史に燦然と輝く黄金時代を築き上げました。外国出身初の横綱誕生という快挙は、東関部屋の名を一躍全国区へと押し上げました。
さらに平成に入ると、青森県出身の高見盛精彦が頭角を現します。独特の気合い入れルーティンと土俵際の粘り強さで国民的人気を博し、「角界のロボコップ」の愛称で親しまれました。初代から2代目の潮丸、そして3代目の高見盛へと受け継がれた東関部屋は、常に話題と温かみに満ちた名門道場として愛され続けたのです。
【八角部屋への統合】同じ高砂一門への合流劇と日本相撲協会の公式発表

部屋の単独継続が困難となった際、受け入れ先として名乗りを上げたのが、同じ高砂一門を束ねる八角理事長(元横綱・北勝海)率いる八角部屋でした。一門の結束と弟子たちの救済を最優先に考えた友好的な統合措置です。
2021年3月、日本相撲協会理事会において「東関部屋の閉鎖および八角部屋への転属」が正式に承認されました。公式発表に基づき、師匠であった元高見盛(東関親方)、部屋付きの元潮丸未亡人を含む関係者、現役力士、呼出、床山に至るすべての所属員が八角部屋へと籍を移しました。
この統合により、元高見盛は師匠の重圧から解放され、本来の持ち味である「土俵上での熱心な技術指導」に専念できる環境を得ることとなりました。後に名跡を「振分」へ戻し、現在は八角部屋の部屋付き親方として若手の育成に力を注いでいます。
【葛飾区柴又の跡地】鳴り物入りで移転した新天地の「現在」
東関部屋を語る上で欠かせないのが、東京都葛飾区柴又への移転劇です。2018年(平成30年)、長年親しんだ墨田区から柴又へ拠点を移転。葛飾区内に誕生した初の相撲部屋として、地元・柴又帝釈天の参道をはじめ地域全体から熱狂的な歓迎を受けました。
新築された稽古場付きの建物は、最新のトレーニング設備や衛生的な環境を備えた近代的な相撲道場でした。しかし、移転からわずか1年後に2代親方が急逝し、3年後には閉鎖という悲運に見舞われることになります。
閉鎖後、立派な相撲仕様の建物がどうなったのか関心を集めましたが、施設は相撲部屋としての役割を終え、不動産として整理・再活用される運びとなりました。地域住民の間では「朝稽古の音が聞こえなくなり寂しい」「柴又の新たな名所になるはずだった」と惜しむ声が今なお語り継がれています。
【力士たちのその後】八角部屋へ移籍した弟子たちの歩み
名門の看板が消滅した後、土俵に残された力士たちはどのような道を歩んだのでしょうか。八角部屋へ合流した力士たちは、環境の激変に戸惑いながらも新たな師匠や仲間たちと共に稽古に励みました。
特筆すべきは、昭和・平成・令和の3元号にわたり現役を続け「角界の鉄人」と呼ばれた元東関部屋所属の最年長力士・華吹の存在です。八角部屋へ移籍後も51歳まで現役を全うし、2022年に惜しまれつつ引退。東関部屋で培った不屈の闘志を最後まで見せつけました。
また、他の若手力士たちも八角部屋の充実した稽古環境の中で番付を争い、引退した者は指導者や相撲関連の仕事、飲食業などそれぞれのセカンドキャリアを力強く切り拓いています。看板は失われても、東関部屋の教えと絆は弟子たちの胸に確実に残されています。
【大相撲の後継者問題】東関部屋の事例が突きつけた角界の構造的課題
東関部屋の閉鎖は、単なる一相撲部屋の解散劇にとどまらず、現代の大相撲界が抱える構造的な後継者問題を浮き彫りにしました。
相撲部屋の維持には、年間を通じて多額の運営資金が必要とされるほか、有望な新弟子を全国から集めるスカウト力、地域後援会との強固なパイプ作り、そして師匠自身の強い経営手腕が不可欠です。力士として輝かしい実績を残した名選手であっても、必ずしも部屋経営に適性があるとは限りません。
急な師匠の病気や逝去に対して、スムーズな事業承継が行えない場合、たとえ横綱を輩出した名門であっても短期間で存続危機に陥るという現実は、日本相撲協会にとっても組織運営のあり方を再考する大きな契機となりました。
【東関部屋】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:元高見盛(振分親方)はなぜ師匠を辞めてしまったのですか?
A1:急逝した2代東関親方の後を継ぎ一度は師匠に就任したものの、部屋全体の経営やスカウト業務、弟子指導の重責が非常に大きく、心身の負担を考慮した結果、同じ一門の八角部屋へ統合し、自身は部屋付き親方として指導に専念する道を選びました。
Q2:現在、「東関」の親方名跡はどうなっていますか?
A2:部屋閉鎖後、名跡は一時的に協会預かりなど異動を経ていますが、かつての東関部屋そのものが復活したわけではありません。現在は名跡保持者の下で管理され、将来的な継承機会が模索されています。
Q3:葛飾区柴又にあった旧東関部屋の施設は見学できますか?
A3:現在は相撲部屋としての活動を完全に終了しており、内部の見学や一般公開は行われていません。周辺は閑静な住宅街となっており、プライバシー配慮の観点からも敷地内への立ち入りはできません。
まとめ:東関部屋の魂は形を変えて角界に息づく
昭和の終わりに高見山が開祖となり、曙という大横綱を生み、高見盛が土俵を沸かせた東関部屋。志半ばでの閉鎖と八角部屋への統合は相撲界にとって痛恨の出来事でしたが、そこには弟子たちの生活と未来を守るための苦渋の決断がありました。
葛飾区柴又の稽古場からは拍子木やぶつかり稽古の音は消えましたが、振分親方となった元高見盛をはじめ、東関の遺伝子を受け継ぐ相撲人たちは現在も八角部屋の土俵で若手を育て続けています。大相撲の歴史を彩った名門部屋の誇りと温かな記憶は、これからもファンの心の中で色褪せることはありません。 (出典: 東関 部屋(Yahoo!ニュース))